□御 由 緒

御祭神

大 己 貴 命 ( おおなむちのみこと )
( 別名 : 大国主命 )

◆創建の由来
創建されたのは御即位6年前の神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられる。
旧記によれば、日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失したものの、御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。


◆御 神 徳
大己貴命 ( 大国主命 ) は多くの妃を娶り、その妃等との間に多くの御子をもうけました。その謂れから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神とも云われ また少彦名命と共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神と云われる様になりました。

◆御祭神系譜


□江戸時代初期の境内図について

江戸時代に全国の一の宮を巡拝した橘三喜は、都農神社も訪れ、参拝した折の事を記しています。また、境内図も描かれており、当時の境内の状況をうかがい知ることが出来ます。

橘三喜「一宮巡詣記」

資料提供  土佐山内家宝物資料館


□都農神社第2鳥居、第3鳥居跡地について

一宮巡詣記(著者=橘三喜)に、第2、第3鳥居跡について記載があり、平成元年に都農町教育委員会は第3鳥居跡に標柱を建てた。第3鳥居跡は都農神社から南東に約3キロほど離れた位置になる。
また、第2鳥居跡は現在の東大鳥居から南に約50メートル先に立っていた。