編纂史・御親拝

□編 纂 史


◎承和4年( 837年 )
官社に列せられ、神階の宣授「続日本後紀」

◎天安2年(858年)
従四位上が授けられる「日本三代実録」

◎延長5年 (927年 )
式内社に列せられる「延喜式神名帳」

◎天文18年(1578年)
日向伊東氏11第藩主 伊東義祐宮殿改造

◎天正6年 (1578年 )
島津・大友両軍の騒乱により社殿焼失

◎元和3年 (1617年 )
高鍋藩主 秋月種春が宮殿を改造

◎元禄5年 (1692年 )
高鍋藩主 秋月種政により社殿の再興

◎安政6年 (1859年 )
篤志家の社殿の寄進

◎明治4年 (1871年 )
国幣社に列せられる

◎大正11年(1922年)
国幣社列格50周年「御神輿」新調

◎昭和9年 (1934年 )
神門・境内の拡張整備

◎平成14年 (2003年 )
御造営奉賛会設立

◎平成19年 (2007年 )
新社殿竣工 本殿遷座祭斎行

◎平成24年(2012年)
くにたまの会発足・宮崎神武会発足

◎平成25年(2013年)
御神輿新調より90周年「御神輿」改修竣工

◎平成29年(2017年)
御造営10周年「西神苑」改修竣工

◎令和元年(2019年)
日向國式内社会発足



□皇族の御親拝

◎昭和9年10月8日
 秩父宮雍仁親王殿下・勢津子妃殿下

◎ 昭和10年11月15日
 昭和天皇 勅使 久松定孝侍従

◎昭和14年6月22日
 朝香宮鳩彦王殿下

◎昭和18年11月27日
 賀陽宮恒憲王殿下

◎昭和30年6月23日
 高松宮宣仁親王殿下

◎昭和38年8月5日
 常陸宮正仁親王殿下

◎平成19年10月6日
 三笠宮寛仁親王殿下



□文化人の御参拝

◎橘三喜
肥前(長崎県)平戸生れ。神道家。
延宝3年(1675)郷里を出発し23年かけて全国の一の宮を巡拝した折の「一ノ宮巡詣記」に都農神社の記載がある。原書は享保7年(1722)に刊行された。

◎木喰上人
甲斐国(山梨県)生れ。
凡そ、90年の生涯中70年が行脚であったと言う。
天明8年(1788)3月、佐賀関に上陸、同年4月西都市三宅の日向国分寺の住職となった。4月16日には都農神社に納経したとも伝えられる。

◎高山 彦九郎
上野国(群馬県)生れ。名は正之。
蒲生公平、林小平と共に、寛政の3奇人の一人で、彼の記した「筑紫日記」には「~高鍋より四里の馬尺遠し町家百軒斗り、板橋二ツ渡りて左石鳥居日向国一ノ宮都農大明神松並木壱丁斗り拝殿宮殿大ならず南向也。神主金丸筑後他出にて分からず、云々」とある。

◎野田 泉光院
旧佐土原藩の真言宗安宮寺8代目住職。
修験僧。名は成亮、俳号は一葉。
文化9年9月3日、老後の思い出として、藩主の許しを得て九峯(英彦山、箕面山、金綱山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山)の峯入り修行の旅に出た。その旅日記「日本九峯修行日記」文政元年(1818)11月5日の記述に「晴天 美々津立 辰の刻 津野町日向一の宮へ詣で納経 本社南向 寺一ヶ寺(神宮寺 大泉寺) 津野町を通り名貫大川無難に越し~」とあり、2日後の11月7日に佐土原に帰りついている。

◎西郷 隆盛
鹿児島県生れ。
幕末、明治の政治家。
西南戦争で政府軍に追われ、延岡に向う途次のことが「永友司日記」に記されている。
明治10年7月31日 晴 (旧6月21日)
西郷隆盛枡屋一泊。是迄止宿ノ者ハ皆脇宿ニ移シ、カヤ毛ノ犬二疋ヒキ、駕ハ渋紙包ニテ玄関ヨリ直ニ上ノ間床脇迄入ル。両脇ニハ兵士二十人程度列座、通ヒ口ニハ屏風ヲ立テ、一向ニ姿ヲ見セズ。是ガ正真ノ西郷ナルヤハ知レス。兼テ西郷ハ犬ヲ愛セルト聞及ヒケルニヤ、西郷ナラント推シタルナリ。当社(都農神社)ヘモ十七八才位ノモノ、犬ヲ二疋ヒキ来レリ。

◎若山 牧水
宮崎県西臼杵郡東郷町坪谷生れ。
歌人。
牧水の姉スエが、都農の河野佐太郎(南新町)に嫁いでいた縁で、日記によると一の宮(都農神社)の夏祭に訪れていることが記されている。
明治35年8月2日 晴
「朝早ク耳川ヲ下ル、中々ニ興深カリキ。都農ヘ十一時ニ着ク、皆々驚カレ給ヘリ。御神輿、ダンジリナド出デ、賑ハシ。浜ヘボラ漁ヘ行キテ失敗ス。夜人ニモマレテ一ノ宮ヘ参詣ス。~」

◎尾崎 士郎
昭和14年7月16日の「黒木浩日記」に
「観光協会主催文士画家一同の来るのを待つ。午後1時過ぎ都農神社に到着せり。一行は6名也。尾崎士郎、岡田三郎、上泉秀信、中村地平、中川一政、井伏鱒二。休憩の後美々津に向かはる」とある。

◎北原 白秋
福岡県生れ。詩人。
昭和16年3月27日都農神社参拝。
社務日記に「初穂料5円奉納」とある。

◎司馬 遼太郎
昭和51年11月中旬。「翔ぶが如く」の取材と思われる。次は「翔ぶが如く」の都農の記述である。
この町はこの街道上でも高鍋や佐土原のような城下町ではなく、付近の農村の商品経済の必要から発達したところである。自然、西郷の宿舎としてふさわしい大屋敷がない。ただ都農の町が誇っていいのは、ここに日向一国の一宮があることである。その一宮からちかい町並みに「枡屋」というこの町きっての回漕業者の屋敷があった。ついでながら筆者は都農の町で枡屋という家がどこにあるのかをたずねまわったが、たれも知らず、最後に町の老舗らしい宿屋できいてみると、「枡屋さんは宿屋もやっておられて繁昌していましたが、昭和のはじめごろにお寺に売ってしまわれて、いまは報恩寺という門徒の寺になっています」ということだった。そこへゆくと、若い住職が庫裡(旧枡屋の建物)の奥座敷に案内してくれ、「ここが、10年役のときに泊まられた部屋だときいています」と、ふすまを開けた。8畳2室で、小庭に面している。部屋の床の間の裏にも廊下があって、風呂も便所もついていた。西郷のころからそうだったらしく、この設備があるため人の目にふれることなくこの部屋に起居できるという利点があったのだろう。げんに枡屋の家族も働いている男女も、西郷が泊まっているなどは知らなかった。用があるときは主人の河野がよばれて用事を弁じた。「主人のほかは客(西郷)の顔を見たものがいなかったそうです」と、若い住職がいった。この建物は総体に床がひくかった。このため小庭の湿気が座敷まであがってくるような感じで、快適な部屋とはいえなかった。